偶像が永遠になるとき

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 全然追ってはいなかった。
個人的な印象だけど、トリッキーな曲は私の好みではなくて、だからそんなに深く知ることもなかった。
だからアイドルだったころのことも当然知らない。

 

正直「死んだらしい」というニュースが入ってきた時も、ああ、そうなんだなという感じだった。
目に入る記事の文章は、それこそ記号のようだった。

 


私はそもそも彼女をそんなに知らなかったので、このことについて何かを言う資格もないな、と思いながら静観していた。
人々がこの出来事についてどういう反応をするんだろうか それが知りたかった。
彼女の名前で検索すると なんとも都合のいいメッセージが波のように溢れ返っていて、それはつぶやいている人が自分自身に投げかけているような、鏡のようでもあり、免罪符のようでもあり滑稽だった。彼女はもう既に死んでしまったのに。

 

アイドルの語源は
ιδειν / είδος / εἴδωλον / idola / idol
「見る」や「知る」という意味をもつ動詞eidoの変化形ideinが語源。
直訳すると「見られているもの」「知られているもの」
イデアもideinを語源とするので、「理念」と「アイドル(偶像)」が線でつながるのもうなずける。

 

つい2か月前にアイドルの熱愛が大々的に報じられたときも、いろんな声を見た。「裏切られた」だとか「やっぱり無理」だとか。
私はその時に「ファンには推しがいるけど、推しには誰もいないかもしれないじゃん」とつぶやいたことがある。
往々にしてそうなのだ。私たちは。
偶像に対して、見たいものしか見ない。ファンとして、「生身の人間」として存在する偶像を労わる素振りを一瞬しても、本当に「生身の人間」としての側面が露呈した瞬間、話が違うとなる。都合のいいところで自らを買い被って、偶像の主体性なんか無視して、自分の理念を寄せるのではなく、自らの理念に偶像を近づける。マスターベーションと何が違うんだろうか。

 


彼女がなぜ死んだのかは彼女にしかわからない。
死ぬ直前にやったライブ配信では「私はそんなに悪い人じゃないですよ」というくらいに、誹謗中傷に悩まされていたのだろうし、
彼女が出した曲のMVでは

「全部消えてしまったような気がして。 全部消えたほうがいいんじゃないでしょうか?」

と言ってみせる。
MVの解説を頼りに観返すと、とても壮大な遺書のようなものにさえ見えてくる。

note.mu

 


何が幸せかなんて誰にもわからない。
この世が、彼女にとって窮屈なだけだったのかもしれない。
死んだらなんにもならないと思う反面、
本人が死ぬことで楽になるなら、死ぬことで幸せになるのなら、その方がいいのかもしれない、と考えることもできる。


でもやっぱり、残された人たちはつらいだろうなと思う。
「初めて」じゃないから、なおさら。
どこまでも一人で、孤独であるように思えて、いろんな人とつながっているのだ。
死は死んだ人のためのものじゃない。残された人間のためにあるものだ。
だって死んだら本人は死んだことすら実感できないけど、残された人はその不在を事実として一生突き付けられるのだから。
勝手に一人で生まれたわけではないのに、勝手に一人で死んではいけないのだ。
だからやっぱり、一人で命を絶ってしまう行為は、身勝手だし、究極の裏切りなのだ。

 


彼女のインスタグラムを初めてきちんと見た。
彼女が亡くなるまで、彼女について知っていることといえば、自由奔放で、ノーブラを推進してたことくらいしか知らなかった。
撮影の合間合間に撮ったのであろうセルカは、とてもとても綺麗だった。
はかなくて、肌の向こう側がみえてしまうのではないかというほど透き通っていて、彼女のために時が存在しているかのような瞬間だった。
その美しさの裏に、計り知れない闇と、自己犠牲があったのだろう。
それを私たちは「美しい」と「綺麗だ」と享受するのは、とても暴力的な行為なのかもしれない。

 


我々の理念が彼女を殺したのかもしれないなとも思う。
偶像が永遠になるとき、それは偶像自身が偶像であることをやめるときであって、それは死ぬときだけなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


知らんけど。