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まあここ俺の城なので(何回目…)TMIだけど書く~



息を引き取ったのが6月6日奇しくも妹の誕生日に旅立ちました…忘れないようにそうしたのかな?
18:45に旅立ったとカレンダーに書いてあったので、その頃は電車に乗ってたな…東神奈川あたりかな
7日から2日間家を留守にすることは事前に伝えてあり、家族も考慮してくれて旅立ったことをリアルタイムで報告こそしませんでしたが
まあ大阪着いて夜中に「りんたろうグループ」なるLINEグループができてたらそりゃ察しますよね…
その1週間前くらいから様態が急変して、大丈夫かな~あと何日かな~と家族でヒヤヒヤしていたのですが、
案外持ち直して、私が家から出るときはまだ眼とかもはっきりしていて「大丈夫でしょう!」と思っていたのですが(でも「最期かもしれない」という気持とのせめぎあいであの日は30分置きくらいに号泣して仕事にならなかった)
母親の幼馴染が遊びに来ていて、彼女が去るまでは元気だったそうです。
彼女の車を見送って腕の中を見たらもうぐったりしていたと。
それを聞いて本当に良かったなと思いました。
私の母親は専業主婦で、りんちゃんを飼い始めたのは14年前ですから40?の時に飼った子で
14年前というと私は13歳だったので怒涛の14年間を母はりんちゃんと一緒に耐え抜いてきたのだよなと振り返ってみました。
理不尽なことも、辛いことも母はりんちゃんと一緒に乗り越えてきて、誰よりもりんちゃんと一緒にいたので
私がりんちゃんの最期に立ち会えなくても、どうか母がそばにいるときに旅立ってほしいなと常々思っていました。
なので望みどおりの最期を迎え、母の腕の中で旅立っていったりんちゃんに感謝しています。
母が外出中に一人で息を引き取ってしまったら多分彼女は精神崩壊してたんじゃないかなと思うからです。

大阪から夜行バスで一度家に帰る予定でいたので、朝7時前に玄関の扉を開くと、
りんちゃんが足を引きずって歩くために床中に敷いたマットがきれいに片づけられているのが目に入りました
ああ、間に合わなかったのだなとそこで認識し、恐る恐るリビングに入ると
りんちゃんはカラーボックスの中に収められていました
腐敗が進まないように箱いっぱいに敷き詰められたドライアイスの中で、静かに眠っていました。
私が大好きだったあったかくて、桜色をしていて、薄い皮膚でを通してぽよぽよしていたかわいいお腹は、固くなり紫色になっていました。
辛うじて毛が(まあ毛は神経通ってないから)柔らかかったのが救いだったけど、うっすらと開いた目を触ってしまって、それがものすごくかたくて冷たくて、私は絶叫したのでした。

7時半に家を出なければならなかったのにそんなことできるはずもなく、結局家を出たのは8時すぎだったと思います(案外早く出てんな)
母が、(我が家は最近軽自動車を買ったのですが)「この車に一度も乗せたことが無かった」と言うので隣町まで向かいがてらりんちゃんの亡骸をおくるみでくるんで大宮まで行くのを送ってもらいました。
おくるみでくるまれたりんちゃんは生まれたての子犬のようでした。
あの車にいた私と両親はぐしゃぐしゃになりながら、誰も一言も言葉を放つこともなく、りんちゃんとの最後のドライブをかみしめていました。

大宮のスケジュールが全て終わって、11時間くらい寝てたんですけど、起きたら妹が帰ってきててずっとりんちゃんを抱きかかえてました。
14時に火葬場の予約をしていたので、それまでみんなでりんちゃんを順番に抱きかかえて、2階の各々の部屋に連れて行きました。
大阪に行くときに空き巣に遭いましたかというレベルで部屋をぐしゃぐしゃにして出て行ったので、りんちゃんがこの部屋を見るのが最後なのに、こんなぐちゃぐちゃで、もっときれいにしておけばよかったといつもの言い訳を泣きながら私は口にしていました。
母は昔裁縫の仕事をしていたので、彼女お手製の洋服を普段から着せていましたが、最近太っちゃって着ることができなかった、私がしまむらで初めて買ったマリン柄の洋服をを仕立て直した服を着せてあげることにしました。
もう四肢が自由に動かないので、前身頃を裁断して、カーディガンのように着せたので、襟が立っているように見えてとてもかっこよかったです。
クリーム色というか、カフェラテ色と言えばいいのか、とにかくベージュ系のいい色の犬でしたから、似合わない色が無かったのでした。
家を出る直前、りんちゃんが嫌いだったお風呂場、ずぶ濡れになって出てくるから床に水が浸食されてずぶずぶになった洗面所、おしっこを毎日するから、最初は水色のアジサイが咲いていたのにピンク色が咲き始めた玄関先、この家ができて16年、りんちゃんが住み始めて14年が経っていましたからりんちゃん抜きではどれも語ることのできない場所が、家じゅうにありました。

火葬場は家から15分もしないところでした。
看守さんが(多分普段喋る分にはとてもいい人)こんな湿っぽい雰囲気なのにブラックジョークを交えていて(りんたろうは漢字で倫太朗と書くのですが、申請書に「漢字で書いてもいいでしょうか?」と母が尋ねたところ「まあ犬は漢字読めないけどね」とか言っちゃうタイプの)それだったので家族でドン引いてましたが、驚いたのは我々以外にもひっきりなしに他の家族がくることでした。
手続きの申請をして、火葬の順番を待っている間机に置いてあるメッセージカードにみんなで手紙を書くことにしました。
死や、楽しい瞬間が眼前しているときに人は何も形容できないのではないか、と常々思っているけれども、まさにそれでした。
3ヵ月前に祖母を亡くした時も、改めて手紙をしたためようと筆をとってみたところで、何から書いていいかわからないのです。
月並に感謝の気持ちを緑色のペンで書きなぐって、順番が来ました。

火葬場はとても寒かったです。
説明はなかったけど、一気に温度を下げて一気に温度を上げて火葬時間を短縮しているのではないだろうかと考えていました。
家を出るときに庭に咲いている花を一房ずつ摘んで、最期のお別れの時にりんちゃんの周りにたくさんのお花を手向けたのでした。
それが本当に可愛くて、愛おしくて、あの時に写真を撮らなくて本当に良かったと思いました。
私は約6年間写真の勉強をしていましたが、「本当に大切な瞬間は写真に写らない」ということを学んできました。
だからあの瞬間は人生でとても大切な瞬間の一つであったし、写真なんかに収まらず、これからも私たちの中で永遠に残像として同化していくのだと感じたのです。


あんなにもふもふしてて、柔らかくてあたたかくて重かった生き物が、四方15センチくらいの紙の箱にすっぽりとおさめられていました。
「受け口で見栄えがよくないから」と低価格の対象となってしまった私たちが大好きだった右下の犬歯は焼かれても残っていました。
尻尾の一番先、喉仏、肋骨、すべて綺麗な状態で残っていて、先ほどの看守さんが「良い育て方をされましたね」と褒めてくださいました(あそこでけなす人はいないと思うけど)
ばらばらになってしまうのが怖くて、妹と我々とでひとかけらずつりんちゃんの一部をもらって、箱に納めてもらいました。

あの時、私の意見を聞かずにペットショップから連れて帰ってきたあの時、私は「犬の匂いがついていじめられるかもしれないから」と当時のワゴン車でしばらく籠城していました。
生まれたてでもその嫌悪感をりんちゃんはすぐに察知して(賢い犬でしたから)、以来我々の溝が埋まることはなかったのです。
「おはよう」と1階から降りてきてりんちゃんを抱きしめようとしても、いつも威嚇されてきました。
いつしかそれが健康のバロメーターになり、いつものように抱きしめようとする時、威嚇されないと逆に不安でしたし、実際に威嚇されない時はりんちゃんの体調がすぐれない時でした。
それでも私がリビングでゴロゴロしていると、背中にあたたかいものを感じることがあって、それはりんちゃんが背中で暖をとってる時でした。
こんなに別れがつらいなら、りんちゃんなんか飼わなきゃよかったなんて1mmも思わない。
いつも一人ぼっちでりんちゃんはうちに来て幸せだっただろうかと1mmも思わない
私たちは14年間1日たりともりんちゃんを蔑にした日なんかありませんでした。
だからりんちゃんは幸せな最期を送れたし、私たちも何の迷いもなく「りんちゃんは幸せだった」と断言できるのです。
我々はりんちゃんの元へ行くまでの間、彼の不在を味わいながら日々を過ごすだけなのです。

 

 

 

りんたろう うちにきてくれてありがとう
可愛くてあったかくてしあわせな日々を与えてくれてありがとう

 

 

 

 

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